Choromeです。
ペルソナ3が明日発売でまた更新しなくなると思うので二日連続の投稿です。
なにかにつけて失敗談が多いし、何年も前のトラウマがなんの前触れもなく急に蘇ってくることもある。
我々の生活はメンタルヘルスとの戦いでもあるのだ。
今でこそ少しずつ安定した生活ができてきたが、Choromeも例に漏れず精神的にとてもつらい時期があった。
今回は自分が救われた、とある言葉を紹介しようと思う。
前職で職場から干され、社内ニートをしていたころ。
ちょうど新型コロナウイルスが日本でも猛威を振るっており、勤めていた会社も原則出社禁止となった。
強制リモートワークに切り替わったことが自分にとっては大きなきっかけとなった。
当時、ほぼ完全に干されかけてはいたものの雑用程度の作業ならば任されることがあった。
雑用とは言ってもガッツリIT系の仕事である。
専門知識がないと対応できないが社内マニュアルなどが一切なく、わからないことはすべて社内の有識者に聞かなければならない。
対面であれば、たとえ相手に迷惑をかけることになろうともわかるまで質問できる。
画面やソースコードを見せながら聞けるのも疑問点を伝えやすくなる。
だがリモートワークでチャットのみのやりとりになるとそうはいかない。
質問をするにしても前提部分(何をどうしたいのか、どこまで進んだのか、どこまでなら理解しているのかといった部分)から文字に起こし、画面やソースコードが記された部分のスクリーンショットを用意して該当部分がわかりやすくなるよう画像を加工し目印をつける。
そこまでしてようやく質問の準備が整うわけだが、Choromeが勤めていた会社はどの部署も常に激務だった。
スキルも経験もない、なんなら無能すぎて干されてしまっている若手の質問に答えているヒマなどない。
もちろんチャットアプリでの通話など論外である。
必死に準備をしてようやく送信した数分後、先輩からの返事は
「忙しいのでこちらに聞かないでください」
というものだった。
たまらず上司に泣きつく。
このままでは作業が進みません。2分でいいから時間をくれませんか。
しかし上司からの返事も似たようなものだった。
「みんな忙しいんです。人に聞かずに自分でなんとかしなさい。それでできないなら向いていないということです」
リモートワーク中はこのような状況が続いた。
※
ここまで書いておいてなんだが、誤解してほしくないのは "スキルや知識が最低限の仕事をこなすうえでの最低限の水準すら満たしていない" ためにこのようなことが起きているのであって、決して会社が若手の育成を放棄しているというわけではないという点である。
事実、Chorome以外の同期や後輩たちは着実に成果を積み上げており上層部からの評判は上々だった。
※
仕事が一切進まず、そのたびに向いていないだのもうやめたほうがいいだのと厳しい言葉を浴びせられてメンタルがやられていたが、一人暮らしだったため相談できる人もおらず不要不急の外出も自粛ムードのなか、たった一人で部屋にこもる日々。
なぜ自分だけがこんなにポンコツなんだろう。
なぜ努力しても結果が出ないんだろう。
なぜ気持ちに身体がついてこないんだろう。
なぜこんなに簡単な仕事すらもまともにできないんだろう。
なぜなぜなぜ……
自分を責め続けた。
失恋も重なり公私共にめちゃくちゃになった生活のなかでメンタルが限界を迎えるのは一瞬だった。
食事も風呂も仕事も趣味も、すべてが億劫になった。
気づけば仕事中だろうが休日だろうが一日中寝て過ごしていた。
目が覚めても何もする気が起きず、鉛のように重く感じる自分の身体を動かせるだけの体力も気力もなくなっていた。
出社していた頃は出かけるついでにやっていたゴミ出しもできなくなり、6畳ほどの狭い部屋はすぐにゴミ屋敷になった。
大量のゴミに囲まれながら"もう生きていたくない"と思った。
息をするだけで激しく疲れるような気がする。
何もうまくいかない、楽しいことなんてひとつもない、なぜこんなにも苦しまなくてはいけないのか。
"死にたい "ではなく"生きていたくない" というのがいちばん近い感覚だった。
連絡が取れないことで心配した両親が合鍵で部屋に突入し、実家に連れ戻された。
実家に戻ったことで少し持ち直したものの依然として心身ともに限界状態が続き退職することになった。
仕事をやめたことで肉体的には楽になったものの、ドン底まで落ち込んだメンタルはただ休むだけでは戻ってこなかった。
それどころか"ニートである"という事実がより精神を蝕んだ。
働いてもいないただのウ○コ製造機になんの価値があるのだろうか。
いなくなってしまったほうが人類のため、地球のためである。
退職して4ヶ月ほどたつと、まだ起き上がるにはかなりの気力が必要ではあるものの、寝転びながらであれば呪術廻戦を見ることができるようになった。
横になったまま発達障害関連のサイトやブログを漁っていると、とある本の紹介ページが目にとまった。
発達障害の人に向けた本でかなり好評のようである。
本を読むだけの気力があるかどうかわからないが、買って読んでみよう。
起き上がれないくせに、なぜかそこに対してだけ妙に意欲的だった。
ステマ臭くなるのでタイトルや作者名は出さないが、死にたいと思っている人へのメッセージと称した本文にはこう書いてあった。
「社会の役に立たなければ生きていてはいけないんですか?」
「何もできなくても生きていていい。だって生まれたんだから」
衝撃だった。
生きるというのは誰かに必要とされること、社会の役に立つことだと思っていた。
学業に励んで良い成績を収めるのは両親がそれを望むからだし、仕事を頑張るのはそれがどこかの誰かの役に立つから、自分が社会にとって必要な人間であると証明するためだと。
だから仕事ができず恋愛もうまくいかない人間に生きる価値などないと、ごく自然に思っていた。
生まれた以上は生きていていい。
役に立たなくても生きる権利がある。
当時の自分にはあまりにも衝撃的で考えもつかなかった。
その本は
「あなたに生きていてほしい」
という言葉で結ばれていた。
今までずっと無意識のうちに背負い込んでいた重荷が一気に下りていくような気持ちになった。
やるからには他人を満足させられる結果を常に出し続けなければならないというプレッシャーから解放されたのである。
その言葉に出会ってから今日まで、自分がポンコツだとか役立たずだとか無能だと感じても「だからなに?」と自分に言い返しながら生きてきた。
自分の優秀さを示して他人に認められることで自己肯定感を高めるのは絶大な効果があると思う。
事実、Choromeはずっとそれに囚われてきた。
そうしないと自分には生きる価値がないと思い込んでいたからである。
社会にはそうした思考を生み出すシステムがいくらでもある。
学校の成績、仕事での人事評価、マッチングアプリや結婚相談所でのモテ非モテ、推し活で貢いだ金額自慢 etc…
順位や点数をつけて他者と比較し露骨に闘争心を煽って格付けするような仕組みが蔓延している。
"他人から評価されること"を重要視しすぎており、そういった環境に身を置くことで"社会の役に立たなければ"、"誰かに認められなくては" 価値がないという考えが形成されていく。
それもひとつの価値観ではあるが、他人からの評価のみを気にするやり方は発達障害や精神障害と相性が悪い。
我々は良くも悪くも普通ではない。
健常者にとっては意識せずとも簡単にできるようなことがどれだけ努力してもできない。
アーティストやタレントなど尖った才能があれば他をカバーできるような一部の特殊な世界を除いては、他者からの評価を第一とする考えかただと自己肯定感が下がる一方なのではないだろうか。
できないことだらけでどんどん自分が嫌いになっていく。
役に立たなくても褒められなくても、それが自分だし生きているだけで十分なのである。
自分を責めすぎてつらくなっている人がいたら、少しだけでいいのでワガママになってほしい。自分を甘やかしてほしい。
自分の価値を決めるのは他人ではない。
自分自身なのである。
まとめ
生きてるだけで勝ち